ところで、同月二十六日は、静岡地方気象台から海上強風警報が発表されて荒天が予測される状況にあったが、五郎竹丸船団が休漁中に操業した他の船団がかなりの水揚げがあったとの情報を得ていた船団長は、乾舷状態などを考慮しないで発航を中止せず、荒天となれば操業を打ち切ることとして発航する旨を主張した。
船長は、荒天を予測して操業は無理と判断していたが、船団長に発航を思い止まらせなかったばかりか、満載喫水線を超える喫水であることに留意せず、操業を行うことに同意して発航することとなった。
指定海難関係人は、第25五郎竹丸が就航後の改造と漁具などの過積載により、満載喫水線を超える状態であったが、運航および操業についての権限を船団長に付与したまま、乗組員に対して、満載喫水線の遵守についての指揮監督を十分に行っていなかった。
25号は、五郎竹丸船団の僚船四隻とともに、魚群探索を行いながら南下し、石花海に達したころから次第に風波が増大して、御前崎沖合に達したころには、風力6の北東風、波高は二炉以上に達し、加えて東南東からの約二メートルに達するうねりを受けるようになった。

■荒天で換業を断念し”港へ午後五時五十八分。ころ船団長は、気象情報からさらに荒天が予測される旨を得て操業することを断念し、船団所属の各船に対して一団となって魚群探索を続けながら帰港するよう指示し、同六時二分ごろ御前埼灯台から一五三度(真方位、以下同じ)三・六海里ばかりの地点において、針路四六度に定めて自動操舵としたところ、風波を正船首少し左から受ける状態となって船体の動揺が大きく、波の打ち込みが激しくなり、風波に抗して約五・七ノットの航力で、戸田港に向けて帰港の途についた。
■船着に大波を受け転覆
船長は、波の打ち込みが次第に激しくなったのを認めたが、一時間に六回ほどの割合で大波に遭遇するときには機関を中立として波の衝撃を緩和しながら進行した。
25号は、魚網が砲水して喫水がさらに深くなり、放水口からの排水が十分に行われず、甲板上に打ち込んだ海水が滞留して右舷側への傾斜が増大するようになり、午後七時十分少し前、機関を中立としたとき船首に大波を受け、船首が急激に右舷側に落とされて、船体が波に横たわると同時に、奔入した海水と滞留水とによって右舷側に大きく傾き、午後七時十分ごろ御前埼灯台から七八度六・四海里ばかりの地点において、船首をほぼ南東に向け停止状態となったまま右舷側に転覆した。
転覆の結果、数人の乗組員が海上に投げ出され、同七時十三分ごろ船体はほぼ南東に船首を向け、その場で船首から沈没した。
当時、天候は雨で風力7の北東風が吹き、波高二対の北東方からの風浪と約二材の南東方からのうねりがあった。
救助、捜索および事後措置
五郎竹丸船団の各船は、3号から「船団の最後尾に追随していた25号のレーダー映像がスコープから消えた」との連絡を受け、5号が無線呼び出しを行ったが応答がなく、さらに秋丸および12号が船舶電話による直接の呼び出しをしたが、海岸局から25号の電源は切れていて通話圏外にいる旨の連絡を受けたことから同船の遭難を知った。
このため、午後七時五十分、ころ3号が確認していた25号のレーダー映像消失地点に向けて、全船が一斉に反転し、船舶電話で船舶所有者に連絡するとともに捜索に向かい、同八時十分ごろ同地点付近に至って海面に浮遊する板切れや油を認め、その後25号のかごなど
前ページ 目次へ 次ページ